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結 び 古着商人だった父は、自分の子も商人にするつもりで、そのために読書まで禁じたのだが、かえってそれが反抗心をそそって子は手に入るものは、何でも読んだ。 内容や、それに対する理解などは問題でなかった。 幸い持合せた読書力に任せて、手当り次第、眼を曝した。浅草小学校の読書室(当時はそれが区内唯一の図書館だった)にも通い、「猫」を一回で、つまり半日で読み上げたことがある。 そのころは国内での自然主義文学勃興の時代だった。 田山花袋や徳田秋声、岩野泡鳴などが、はやっていた。わたしはそういう「庶民の生活」が嫌いだった。「貴族主義」だったらしい。目刺しよりビフテキだった。 外国文学と云っても、もちろん翻訳を通してだがゲーテとトルストイとストリンドベリをあらまし読んだ、と云えば、どの程度の読書家だったか、わかると思う。 父が呉服屋だったから商業−−商人を嫌い、和服を嫌った。母か義太夫を語ったから(驚くべき悪声であった)歌舞伎芝居が大嫌いになった 浅草に育ったので町家が嫌になり、町内の娘が銀杏返しに結うのでお下げ髪の女の子でなければ恋愛なんかしないぞ、と心に誓った。 映画は洋画館でなければ入らなかった。特に尾上松之助なる大眼玉には生理的悪感を覚えた。 そのころ出版された翻訳小説の半分ぐらいは読んだと思う。 西洋カブレが皇国古典に惚れたのは、どちらも、当時わたしが沈んでいた環境と、まったく異質のものであったからである。 要するに、文学を通じて見た古代日本は、わたしにとって、現代の外国以上の異国だった。そして今のわたしにも、この感想はかわらない。
この土地に、偶然住みついてから、もう七年になる。ここは古いものの多い土地であった。ことに過去三年、わたしたちは現住所にいる。ほとんど隣家にひとしい薦八幡社は記紀より古い歴史を秘めていた。 疑問は果てなく湧いた。それは、わたしが入手できる書物は解答の無いものが多かった。この夏、どんな心のゆらぎからであったろう、わたしはこのノオトにペンをつけはじめた。そしてニケ月たった今、この結びの言葉を書いている。 この間に原稿用紙にして四百字詰二〇〇枚書いた。実をいうと、四〇年前に結婚してから、わたしは文学活動の衝動を感じたことは、ほとんど無い。 それが、この仕事をしたのだから、まず第一におどろいたのはわたし自身である。 ノオトの内容の価値はノオト自身が保証するだろうから、わたしは何とも云わない。批判は読者の権利である。 しかし、歴史的地点に住居するということは、それ以上の重味を持つ。まして、その地点が邪馬台であり、卑弥呼の地であったとは。意外であった。 また倭人伝の記述が、読者をそういう心理に引きこむ魔力を持っているのである。 わたしは、このノオトで、邪馬台は大貞である、ヒミコの宮居は、今、わたしの踏む、この土の上にあった、と主張した。わたしはもう、死ぬまでこの主張を変えることはあるまい。 しかし、かかる主張は好事者の狂信として排斥される。学問に関心ある人は、わたしのノオトを歯牙にもかけまい。わたしはドンキホオテだ。わたしは、敢えて王様のライオンの鼻さきを蹴飛ばすのである。 もし、SFだと云うなら、このノオトは全部がSFであろう。もし、推論だと云うなら、附録のSFを含めて、全体が推論である。 ときどき、わたしはアサミの、その後の運命を空想して楽しんでいる。もしかすると彼女は、あの露の夜道で、ふと呟いた言葉のとおり、古代日本のどこかの女王になったのではないか、という気がしている。
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