横堀家先祖覚え書


五    明    記

ご     みょう

〜とみ伯母さんから聞いた話〜


                横  堀  謙  治




拝啓 一筆呈上

 先日ちょっとお話しました横堀のルーツのコピーが出来ましたのでお送りいたします。

 私が書いたので、なんとも締まらない点が多くありますが、はからずも聞き込みました

先祖の話なので、このまま空に消し去るのも惜しいと思いまして文にした次第です。

 どうぞご一覧を願えれば幸甚です。                   敬具


  昭和五十七年一月十四日

                              謙治  拝


      五   明   記

      ご  みょう


 人間というものはおかしなもんで、誰でも自分の先祖はどんな人だったろうかと思う時

があるらしいものです。 よく世間では人は誰でも皆源平藤橘の四氏からでているのだと

言いますが、横堀も近江源氏の佐々木高綱からだと言った人もいましたが、それは多分家

紋の丸に四つ目の紋所からかも知れません。 私も若いころから、ご先祖様はだれかいな

と思った時がありましたが、なかなか具体的に調べる暇がないうちに、親兄弟が皆この世

から消えてしまって、さて困ったなとなってしまいました。 ところが運がよかったのか

五十年ぶりに会った人が我が家のルーツを知っていまして私に語ってくれました。 話の

内容は明治維新前後、幕末時代あたりまでですが、かなりはっきりしていて、奇想天外な

話や故人の苦労話などが次々と出てきて、聞いていた私も思わず笑ったり呆れたりしまし

た。

 その話を聞かせてくれた人は、小林とみさんという八十幾歳の老婦人で私には伯母にあ

たるひとでした。 そのとみさんの母の母、即ち祖母は横堀良作の妻で、名前はおたきさ

ん、とみさんはおたき婆さんに可愛がられて子守歌がわりに、いつも横堀家の珍話を聞か

されて育ったので、よく覚えているよと私に聞かせてくれたのです。 私もおたき婆さん

なら、子供の頃我が家へも毎年遊びにきたのでよく知っていました。 中気で左半身がき

かなくなっていましたが、私の父の信次郎の実母なので、一年のうち二回ぐらいは必ず高

崎の家から呼び寄せて、同じ町内に住む兄の英作さんと一緒に芝居見物やら東京名所めぐ

りやらさせて、なかなかの親孝行ぶりを示しました。 そのおたき婆さんから聞いた話だ

から私もこれは真実なんだろうと思います。 (注・小林とみは系図上筆者の従兄弟に当

たると思われるが原文のまま)



      五 明 初 訪


 昭和五十三年十月のある日曜日でした。 秋晴れの好天気に恵まれて、私はローカル線

の八高線で群馬藤岡駅に降りました。 駅前のタクシーに五明に行きたいと言うと、運 

チャンはちょっと妙な顔をしたけど、とにかく走り出しました。 神流川を越して、また

群馬県から埼玉県にはいり、途中黄金の波の稲刈りに精出しているお百姓さんに道をきき

ながらタクシーは五明の町に入りました。 町といっても小さくて家はあっても人影はあ

りません。 「ここが五明です。」と言う運チャンに「ご苦労様。」とお礼の言葉と千円

札をあげて帰ってもらい、街角でしばらく立っていたら、向こうにお婆さんが一人何やら

片付け物をやっているのを見つけた。 「五明金剛寺というお寺はどこですか?」ときく

とすぐに判った。 とみ伯母さんが、金剛寺に行けば先祖の大きな墓が本堂のすぐ脇にあ

るからと言ったので、何はともあれそれを見ようと金剛寺に来たわけ。 少し歩いた町は

ずれに金剛寺はあった。 境内に入ってみたが、本堂はすぐ目の前にあり、どこを探して

も大きなお墓も石碑も見あたらない。 本堂の脇の庫裡へいってお住職にお目にかかり、

事の一部始終を物語って、ここに私の先祖が永眠している筈だがと言うと、お住職の清泰

道さんが言われるに、「この本堂は四・五年前に大改修をしまして、その節境内も整理整

頓を致しました。 私はその後にここの住職として来ましたので、詳しいことは判りませ

んが記録がございますから調べてみましょう。」と言って何やら古い帳面を出してきた。

 「どうぞご本堂へお越しください。」と案内されて、そこに天井からぶら下がっている

天蓋を見せてくれた。 それは一メートル位の四角い黒漆塗りの天蓋で何の飾りもなくて

、ただ丸に四つ目の紋と下がり藤の紋が金で描いてあった。 「その他金欄緞子が一枚奉

納されております。 土地も二反何畝とか奉納されたとか記してありますよ。」と言った

がどれも昔の良作さんの時代の話で、肝心の証拠になるべき大きなお墓はお住職も知らな

かった。 もっとも考えてみれば何十年も音沙汰なしの檀家では、お寺のほうも面倒見切

れないだろうから片付けてしまたんだろう。

 厚くお礼をのべて、ご本尊へご寄進して帰り際に、水引塚の横堀と言う家を尋ねたら、

お住職は庭まで出てきて、あそこに見える大木を目当てにおいでなされ、あの木の下にあ

るのが本当の横堀だと妙な事を言った。 教えられた通り大きな木を目当てに畑や田んぼ

の中の道を行くと、途中に七・八つ程石碑が並んでいた。 庚申塔やら二十三夜講の板碑

だった。 それを通り越して舗装道路に出たら、三百メートル位先に関越高速のガードが

見えた。 大木が近くなり道から少し奥に入り込んでいるらしい。 そこに二軒横堀があ

った。 手前の横堀は小ザッパリした勤人風の家、お住職から奥の方だと聞いてきたので

奥のほうへ進んで行くと、これは又すごく荒れた草葺屋根の農家だった。 その裏に二抱

えもありそうなけやきの大木が堂々と天を掃くような枝振りで立っていた。 黒光りする

縁側でもんぺ姿に地下足袋のおばさんが長々と寝込んでいた。 私は声をかけていいのか

悪いのかちょっと戸惑ったが、どうやらほかに誰もいないようなので、しかたがないから

「こんちわ。」と大声を出すとおばさんはびっくりして飛び起きた。 その人が横堀恒男

さんのおかみさんのお清さんだった。 「今、稲刈りの最中でちょっと休んだら疲れが出

てしまっただよ。」と笑った。



 横堀恒男さんの住所は次の通りで、私は翌年にも再訪した。

 〒369ー0317  埼玉県児玉郡上里町五明三十四

    系図がわかっている人

                    清

        ?           │

        │ ────  ?───  恒 男

     ┌ 梅 吉       ┌  と み

     │           │

     │    小林  麟  ├  き ん

     │       │  ─┤ 

     │     ユ ウ  ├  猛 

     │     |     │

     │     |       秀子

     │     |

     │     |  ?

     │     |  |  ── ふみ子

     │      英 作 

     └  滝  │                     

  幸太郎   │  ─┤

   │  ─ 良 作 │      ┌  信太郎──  博

  ひゃく      │      │

           │ リ ン  ├  福次郎── 楠 生

           │  │  ─┤

           ├ 信次郎  ├  謙 治── 勝 弘

           │  │ ─┐│ (筆者)

           │ せ ん │├  正 雄──中島皓児

           │     ││  (中島家へ養子)

           │     │└  祐 忠

           │     │    (戦死)

           │     └─  雅 勇

           └ 正 雄    ツネ オ

              (早世)

 幸太郎にも兄弟があったろうと思えるが、現在ではまだ判らない。

 現在、五明には横堀姓を名乗る家が六軒あるそうで、横堀恒男さんが先祖の地に住んで

いる。


 金剛寺の天蓋にあった家紋は、丸に隅立て四つ目ではない。 芝居に出てくる佐々木高

綱の紋所と同じく、四つ目が天地水平に並んだものだった。隅立て四つ目を九○度だけ回

転させた形で、丸に平四つ目と呼ぶものである。




     とみ伯母さんから聞いた話 (一)


 横堀幸太郎さんは、庄屋の跡取り息子だった。 ここは武蔵国長幡村水引塚、この辺は

徳川幕府直轄の天領と言われるだけあって田圃ばかり。 近くを流れる神流川の水で毎年

秋の稲刈りは賑やかだったそうな。 幸太郎は剣術が大好きで、侍にあこがれていたらし

く、長滝村の庄屋の娘お百さんをお嫁さんに迎えた途端、その夢の実現にとりかかってし

まったという。

 おとなしくしていれば村の庄屋の旦那でいられる庄屋様、名主の息子なのにどうしても

侍になりたかったらしい。 あの当時はそんなに百姓の目からみると偉いもんに写ったの

かしらね。 誰から聞いたか、今江戸では侍の株がお金で買えるという話に、お百さんの

嫁入り持参金と我が家の持ち金、合わせて百両を持って、新婚気分のまだ醒め切れない嫁

さんをくどき落として江戸へ出ていった。 お百さんもご亭主が立派な侍になって帰って

くれるなら、二・三年は辛抱して待ってます位の事は言ったのかも知れない。 ところが

すぐ戻る筈の幸太郎さんはそれっきり十五年も戻らなかったという。 まったくいったい

どうなったんだろうね。 

お百さんはその時もう身ごもっていたそうで、だから生まれた男の子に良作と名を付けて、

毎日毎日首を長くしてご亭主の便りを待っていただろう。

 その良作は十五歳。時は幕末、黒船騒ぎや勤皇佐幕のチャンバラ時代で、江戸の芝居役

者もおちおち芝居も出来なかったのか、この長幡村の方まで旅芝居が回って来たそうな。

庄屋の屋敷は広いので、そこへ一行を泊めてやって村芝居が始まる。 お百姓さん達は大

喜び。 昼間の疲れを夜の芝居見物で癒そうと、大勢集まり賑やかにぎやか。 お百さん

も役者連を大事にしたので役者も大喜び。 しばらく滞在しているうちに、村の衆に芝居

のやり方を教えるようになってしまった。 さあ、皆嬉しくなって毎晩芝居の稽古。 良

作さんは男前だから色若衆やお小姓役を仕込まれた。 芝居を覚えた村の若いもんは、初

めは自分の村でやっていたが、うまいうまいと褒められるともう夢中。 畑も田圃も放り

っぱなしで、あっちの村こっちの村と芝居を打って回る。 どこへ行っても喜ばれるは、

酒は呑めるは、小遣銭は貰えるは、女の子にはもてるはで、もうおかしくって百姓なんか

出来るかい、なんて言うもんまで出てくる始末。

 秋祭りもすんで風が冷えてきた頃、ハッと気が付いたら長幡村だけお上に納める上納米

がすんでいなかった。 江戸のお奉行様からは矢の催促。 ハイハイ只今只今の言い訳も

もう時間切れ。 しびれを切らした役人が、いよいよ直々に現地に乗り込んでくるという

通知が、お百親子のところへ届いた。 肝心な庄屋、村代表の幸太郎さんは、丸っきりの

行方不明。 しょうがないので村の長老達を集めての大評定。 長老達もこれは村全体の

責任だから、まかり間違えば自分たちの首も飛びかねないので青くなって真剣に考えた。

はじめの日はいい案が出ずに散会。 次の晩も駄目で三日目の晩にえらい案を考えた。

芝居をやろうということになってしまった。

 お役人にどんな芝居をやろうというのだろうか。



     とみ伯母さんから聞いた話 (二)


 さて、お役人をだます芝居の筋書きとはこんな案配だった。

 まず酒と肴を沢山用意すること、そして庄屋の良作さんは、男前だからお小姓姿になり

お役人にお酒をやたらにすすめて沢山呑ませ、へべれけになったところを長老が進み出て

袖の下を掴ませる、そしてめでたく今年の年貢米を負けてもらおうという、随分人をくっ

た話だから呆れたもんだ。

 いよいよ前触れのあった日にお役人がやってきた。 さっそく村中総出でお迎えして、

長老の指図で酒だ肴だと御馳走攻めが始まって、きれいに着飾ってお白粉までつけたお小

姓姿の良作さんが、一生懸命接待に大車輪でサービスしたので、お役人は呑むわ食べるわ

大満悦の態。 このぶんならうまくゆくだろうと、予定のように長老が三宝の上に小判を

乗せてお役人の前に進み出て、今年の年貢米免除の願いを出した。

 どっこいこのお役人は首を縦には振らなかった。 そしてあべこべに、他村は皆完納な

のに免除とは何事ぞ、庄屋の怠慢による罪あさからず、よって庄屋を打ち首に致すからこ

れへ出ろと怒鳴った。 さあ大変、皆びっくり仰天。 これじゃあ話が大違い。 長老は

じめ一同土下座しておでこを泥だらけにして、どうぞ庄屋の打ち首だけはお許しをと頼ん

だら、お役人が、それでは来年の秋には、今年の分も合わせて二年分納めるなら許してや

ろうと言ったので、一も二もなくその条件をのんだ。 必ず違背するな、と言って帰って

行くお役人を、村人一同村はずれまでお見送り申したそうな。

 だますはずが反対にだまされたような形になって皆青い顔。 それにしてもさすがはお

江戸のお役人様、田舎芝居の村人より役者が一枚上だったわけ。 まだ乳臭い庄屋の小倅

の首を切ったところで、一粒の米も出ないのなら、一年待って二年分の米が上納されたほ

うがよいもの。 それにしても良作さん、九死に一生を得たと言う訳だった。

 二・三日はお百さんも良作さんもボーッとなっていたところへ、またまた大変な通知が

来た。 この辺を取り締まっている岩鼻代官所から、年貢米未納のゆえに向こう一年間、

長幡村名主横堀良作に閉門申しつけるというお達しだった。 よく映画の時代劇にも、閉

門というと門の前に青竹をぶっちがいにするのが写るが、本当は門ばかりでなく、外に面

した窓にも全部竹でバッテンをするという。 ただし、裏のお勝手口だけは開けてあって

出入りはこっそり出来るようにしてあり、お上にもご慈悲という訳なんだろう。 でも全

部閉めたら飢え死にしてしまうかもね。

 それからの一年間は、良作母子をはじめ村中一丸になって死に物ぐるいで稲作に精だし

た。 おかげで天も感応ましましてか大風も吹かず大豊作。 めでたく翌年の秋には二年

分の年貢米を早々に完納し、閉門も許され、庄屋母子も村民もやれやれと肩をなでおろし

盛大な秋祭りを祝ったが、芝居だけはやらなかったとか、もうコリゴリというところだっ

ただろう。


 村や我が家でそんな大騒ぎがあったというのに、肝心の幸太郎さんは十五年も音沙汰無

しで、一体どうなってしまったんですかね。 これはとみ伯母さんからも、何の話も取れ

ませんでしたから、ここは僭越ですが私が推理してみます。


 江戸へ出た幸太郎さんが、御家人株を売買する世話人のところへ行ったら、世話人の言

うのに、株はすぐ買えるが武家には武家の作法があるから、まずそれを覚えなければ駄目

だといわれて、それではとある大旗本のお屋敷へ仲間奴にはいった。 仲間奴はお殿様の

お出かけや用事の無い時には、仲間部屋で待機している訳だ。 旗本屋敷は治外法権の聖

域だから、仲間部屋は暇さえあれば朝からバクチの丁半が始まる。

 幸太郎も武州の産まれ、上州武州はヤクザの本場、丁半位は知っている。 百両の小判

が懐にあるが、さすが目的があるのでじっと目をつぶって我慢の子でいたが、相部屋の者

はこの田舎者は大分懐中が暖かそうだと知ると、あの手この手で誘いをかける。 元々好

きな道だった、いつのまにか仲間に入ってしまった。 バクチは魔物だ。 勝てば気がで

かくなって皆におごる、負ければ負けたで取り返そうとますます深みにはまっていく、だ

から借金して夜逃げをする者さえ出るはずだ。 幸太郎さんも懐の金だけはさわるまいと

思っていたろうが、他人と違って借金するわけじゃないから取り返せばいいだろうで、つ

いつい小口からチョビチョビ使い出してしまって、気が付いたらもうどうしようもない程

の金額になってしまった。 ええどうにでもなれで侍になる夢はつぶれ、故郷へも今更帰

れずで、ついつい十五年の歳月が流れていってしまった。

 そのかわり仲間奴の間では顔の売れた人間になっていた。


 十一月のある晩、縄暖簾の飲み屋で一パイやっていると、一人の旅人が入ってきた。

それが幸太郎さんの顔をしげしげと見ながら、「あんたはもしかしたら長幡村の幸太郎さ

んじゃあありませんか。」と言った。 幸太郎がソーだよと答えると、私は長幡村の誰ベ

エだと名乗る。 幼馴染みの顔と顔というわけで、お互い懐かしさにさしつさされつ、酒

が進んで話も弾む。 話が村芝居からまだ見ぬ我が子の良作さんの打ち首事件になり、や

っとこの秋に二年分の年貢米を納めて閉門が解けた話の一部始終。 さすが強気の幸太郎

さんもすっかりシュンとなってしまって、村人に別れて部屋に戻ってからも、人が変わっ

てしまったようにしょんぼりしてしまった。 まわりの者がびっくりして、武州の兄貴ど

うした病気じゃあないか、と心配する。 やっとのことで幸太郎さんの重い口から、御家

人株を買いそこなった話から、故郷に帰るに帰られないで十五年もたってしまった話を聞

き出した。 聞いた連中は、そうかそんな訳か、それじゃあ兄貴はお侍さんになる大望が

あったのか、すまねえすまねえ、何も知らずバクチのいいかもにしてしまったが、これじ

ゃあ何としてもここは一番、我々仲間奴なかまがひとはだ脱いで、兄貴が無事故郷へ戻れ

るようにしなけりゃあ江戸っ子の顔が立たねえ、ソレ皆手を貸せで何やら相談を始めた。

 そして幸太郎さんは髪結床へ行くように追い出した。


 ここまでは私の想像なんですが、あなたならどんな推理をしますか。 ひとつやってみ

てみて下さい。


 関東名物カラッ風、年の暮れが近くなるとこの風が吹き出す。 特にここ児玉郡長幡村

は関東平野の真中で、風の当りは強い土地。

 そのある日の夕方に、玄関に「頼もう。」と言う声がした。 女中さんの取り次ぎでお

百さんが玄関まで出てみると、髪を大たぶさに結って大小差したお侍が、一人の仲間奴に

大きな荷物を持って立っていた。 お百さんは、「どこのお方で、何の御用でございまし

ょうか。」とこわごわ尋ねる。 お侍はニヤニヤ笑いながら「こりゃお百、御前はわしを

見忘れたか。」と言ったそうな。 お百さんがよくよく見直したら、それが十五年前に江

戸へ出ていったご亭主の幸太郎さんなので二度びっくり。 早速二人を座敷へあげて酒肴

の支度。 一人息子の良作さんを真中に、久方ぶりの嬉しい団らん。 夜が明けた翌朝に

はお供の仲間奴は消えていた。 江戸のなかまの計らいで立派なお武家姿で故郷入りをし

たが、どうせこれは偽物、お供も仲間の一人が買って出たもの。 お百さんもとうの昔に

こんなからくりは見抜きはしましたが、十五年ぶりに掴んだこの幸福を今度こそ逃がすま

いと思ってか、幸太郎さんにはこれっぽっちも文句も恨みも言わなかった。 

 幸太郎さんもそれから村を離れず、村のために尽くしたそうです。 そうして六十歳で

なくなりました。 

過去帳には明治二年八月五日となっています。 戒名は泰心帰道居士です。




     とみ伯母さんから聞いた話 (三)

                  

 父親の幸太郎さんが、十五年ぶりで我が家へ戻って来てくれたので、良作さんもやっと

名主役から解放されて、自分の時間が持てるようになれたので、それからは一生懸命勉強

に励んだ。

 勉強と言えば、現代は義務教育制度だから、馬鹿でもチョンでも学校へ中学までいくの

で、お陰様で字の読めない子はいなくなったけど、勉強嫌いの人もあるので、無理やりや

らされついつい暴力教室なんかの主演者になってしまうのかね。 ところが昔は義務制で

ないから、本当に好きな者だけが勉強するから進歩も早かったらしい。 だから暴力教室

なんて全然無かったから、先生も安心だったらろう。 庄屋という家柄のせいで、筆を持

つことも多いのと、代々能筆の血筋があるのか、字を書かせたらお寺の和尚さんか良作さ

んかと言われる程にうまくなった。

 三十歳になった時、徳川が倒れて明治となり、新政府はご存じのように日本の門戸を世

界に開いた。 新しき酒は新しき革袋に入れるべし、と言ったキリストの言葉のように、

新政府のおふれで今まであったものは古いから全部捨てて、西洋の新しいもんを何でも習

え何でも覚えろと言う案配。 次から次といろいろおふれが出るので、村民も随分とまご

ついたらしい。 良作さんはこんな騒ぎのなかでも、日頃勉強していたお陰で、新時代の

空気にもすぐ馴染んだらしい。

 なにしろちょうど男盛りの三十歳だから、田舎にばかりこもっていては駄目だと、鞋ば

きで埼玉の奥から横浜までチョクチョク出掛けて行った。 そして新しい知識とニュース

を村の人に聞かしたり、土産物を買ってきたりしたそうな。 その土産物の話の中で今も

残っているのはランプの話だった。 昔は行灯(あんどん)が上等ものでろーそくの灯り

の時代だったから、良作さんの買ってきたランプの光は、それこそ文明開化のシンボルの

ような輝きだったろう。 だから長幡村の横堀の家のランプといわれて、村中はおろか近

在の村からも腰弁当をぶら下げて見にきたそうな。 そして夕暮れになり、ランプに灯が

はいるとそのパーツとした輝きと一緒に、見物衆がワーツと声をそろえて手を叩いたそう

な。

 スペースシャトルの打ち上げを見ても、今の人達はそれ程にも騒がないほど新しいもの

に慣れ過ぎてしまいましたが、思えばそれくらい文化に遠かったわけでしょうね。

 明治新政府は出来たてで金が無いので、何か外貨を稼ぐ物はないかと探した末に、絹が

外人にうけることを発見して養蚕を奨励しだした。 それで上は皇后陛下から下は百姓の

おかみさんまでお蚕を飼うことに精出した。

 良作さんもそれに目をつけた。 明治になって、庄屋は廃されたのでしょうから、農業

だけではなかなかうだつが上がらない時でしたろう。 これこそ新興日本を育て、農村を

生き返らすものであると確信してしまった。 農村は桑を植える土地と、養蚕をやる人手

は十分にある、ただ養蚕のやり方と資金が無いのが壁だった。 良作さんはこの壁を取り

除けば成功間違いなしと思って、いろいろ考えた末に一つのアイデアを思いついた。

 まず、蚕種を各農家へ卸して歩いた。 養蚕は春夏秋の年三回なので、春蚕の種代は前

貸しして、夏蚕の種を卸す時に回収して、夏蚕の種代は秋蚕の卸す時に回収するという一

季づつ前貸し制にした。 それだから農家は大喜び、お蚕が出来さえすれば現金が入るわ

けだから、良作さんの回って来るのを、皆楽しみにして待っていたそうな。

 冬場は、良作さんは自宅で寺小屋を開いて、村童に習字を教えてやったと。

 春が来ると、大風呂敷を背負って、村々を巡って歩き、その足跡は埼玉県と群馬県のか

なり広い地域だったらしい。 そして養蚕指導ばかりか、農家の家庭相談、もめ事の仲裁

や赤ん坊の名付け親までやったりしたので、横堀の旦那は県知事様より有り難い人だと言

ったそうな。


 明治十二年のこの年は、日本の西の方からコレラが流行してきて、関東方面にも秋頃に

はあちこちに病人が出てきた。 幕府時代から何回も流行して、その都度大量の人が死ん

だが、文明開化の新しい風が入る反面、こんな悪病も潜りこむ悪い面もあったんだろう。

 秋蚕の季節になったので、良作さんはいつもの通り、自分の村を振り出しに、だんだん

まわりまわって群馬県の井野村というところへきた。 ここは今は井野町となり、高崎市

と前橋市の中間で、両毛線井野駅というのがある。 その村まで来て発病した。 嘔げた

り下したりしたそうだから、やっぱりコレラにかかったのだろう。 長幡村へ知らせがき

てすぐお滝さんが三人の子を連れて駆けつけた。 でも間に合わなかったという。 農家

の一室に安置されていた姿は、生前の大きくてでっぷりした立派な体格だったのが、すっ

かり痩せ細ってしまい別人のようだったという。 村人が街道の端に四メートルもの深い

穴を掘って、そこへ良作さんを埋めたそうな。 なぜお骨にしなかったのかね。 そこへ

横龍居士という墓石を立ててくれた。

 その後、その墓石は両毛線が出来るので、高崎の君が代橋の際の墓地に移り、また昭和

五十五年に中豊岡のあるお寺へ移ったが、長幡村にも金剛寺にあったというので、お墓が

三つもある人だったと、とみ伯母さんが笑っていた。

 良作さんが死んだ時は、四十二の厄年で明治十二年九月二十三日だった。

 後で成人した息子たち、上州屋の英作さんと越後屋の信次郎さんが共同出資して、立派

なお墓を建てたが、それには豊玉院横龍居士となっている。 この人がまだまだ元気で長

生きしていたら、どんなだったろうかと思われてならない。

 残された家族は、母親のお百さんと妻のお滝さん、子供は長女のユウと長男英作、二男

信次郎、お滝さんは三十六の若後家さんになってしまった。 二男信次郎が明治九年生ま

れだから当時で三歳位。 そうすると英作さんは七、八つかも、おユウさんが十歳か十一

歳歳位だったと思われる。 母親のお百さんがとても気丈者で、葬式の時に大勢の来会者

の前で、良作は良い子を沢山残しておいてくれたので心配ありません、と挨拶をした。

                                   


     とみ伯母さんから聞いた話 (四)


 よく人間には厄年というのがあるということは皆さんおききでしょう。 子供の頃の七

五三も、初めは祝いより厄除けの行事だったそうだし、厄年も十九、二十五、三十三、四

十二、六十などいろいろあって、特に女の三十三、男の四十二は大厄といわれている。

良作さんもやっと計画が軌道に乗って、将来が薔薇色に見えてきた男盛りの四十二歳にし

て不幸にも病死してしまったが、実に当人自身さぞ無念だったろう。 またあとに残され

た家族のものは一層大変だったと思われる。

 それでも後家のお滝さんは、長女のユウを東京へ行儀見習いに出している。 行儀見習

いとは現代的にいえば花嫁修行だろう。 ご亭主はなくとも元庄屋であった誇りを持続し

たいのか、女中奉公に出したのではないと言っていた。

 ちょうどその頃、東京浅草の今の国際劇場の裏あたりに、福島柳甫という南画の先生が

いた。 京都丸山四条派を学んで、大層な名人という評判をとり、方々から絵の注文があ

ってよい生活をしていたそうな。 その柳甫先生は良作の母のお百さんの妹が、埼玉の本

庄にある福島さんという足袋屋さんに嫁に行き生まれた子だそうで、遠いが親戚に当る人

まあ親戚なので安心して小娘のおユウさんを行儀見習いとして預けたわけだろう。 とこ

ろが柳甫先生は絵を描いていればそれでいいだろうが、肝心のお行儀を教えてくれる筈の

奥様のほうはいたって行儀が悪く、朝寝坊で夜更かしで、ろくな挨拶も出来ない人だった

ので、変だなあと思ってよく聞いてみたら元吉原でお女郎さんをしていた人だった。

成程これではとても見習いにならないと半年ばかり居てから、今度は蔵前の大きな商家へ

務め替えをした。

 蔵前というところは、徳川時代は武家の禄米を管理する、札差しという特殊な商人が住

んでいた所だから、明治になってもまだその頃は裕福な暮らしをしていた家が沢山あった

のだろう。 女中や番頭など大勢いたことだろう。 そこへ住み込んで今度はよい行儀見

習いができ、早くも三年ばかりたったある日、ヒョッコリ弟の英作さんが尋ねてきた。

まだ十二歳くらいの英作さんが一人で来たので、おユウさんも懐かしさも人一倍だったが

何やら胸騒ぎもするので、さっそく女中部屋へ招き入れて話をきいてみたら、英作さんは

こんな話をした。

 故郷の家では父が死んでからお百婆さんもめっきり弱くなり、母のお滝さんが畑をやり

田圃は人に貸して、小作料の上がりで英作、信次郎の二人の子供を育てていたところ、す

ぐ近くに住むお滝さんの実弟の梅吉がしげしげと家に出入りするようになった。 この梅

吉は百姓なのに怠け者で鍬を持つよりサイコロを転がすほうが好きな人間でしたから、良

作さんが健在中はいくら自分の姉様でもなかなか出入りしにくかったが、今は目の上のこ

ぶの良作さんが居ないのでおおっぴらで出入りする。 そして来るとお決まりのように金

を貸してくれという。 お滝さんもこっちも文無しだよと断っていると、そのうちに梅吉

は金が無いなら判を貸して欲しいと言い出した。 そんな人間に判なんか貸したら、それ

こそ土地も屋敷も皆バクチの元手にされてしまう。 弱ってしまったお滝さんが姑と相談

して、実印さえ無ければいいのだから、英作に持たせて東京のユウのところへ預けること

にしようと、それで私が来たのです、と英作は語りながら風呂敷包みの中から実印を出し

て姉に手渡した。

 さておユウさんもこうゆうことはどうしていいか判らない。 いっそここのご主人に相

談してみようと決心して、主人のところへ英作と連れてご挨拶にいき、弟の上京した事情

も包まず話をして、どうぞ良いご指導を教えて下さいと頼んだ。 ご主人はよく出来た人

で、この年若い姉弟の心を察してくれて、それならおユウはあと三年くらいここで見習い

をしていなさい、英作は私が保証人になってどこかお勤め口を探してあげるから、そこで

働いて立派に横堀の家を立てる人間になるようにと言ってくれた。 おかげで英作はある

古着屋へ小僧にはいった。

 古着屋というと現代の人は馬鹿にするが、昔は衣類は皆手織りだったからなかなか高価

な品だった。 新品は上級武士か金持ちだけで普通の町人や下級の武士は皆古着屋で着物

を買ったもの。 だから古着屋でも大店もあり、また集団で一ケ所に何十軒も並んでいた

町もあって、東京では芝の日陰町と上野のアメ横あたりと、浅草の仲町の三ケ所は有名な

古着屋街だった。

 英作さんが小僧になってから三年ばかりたって、中僧くらいになった頃、また次男の信

次郎がおユウさんを頼って上京してきた。 信次郎もまた姉のご主人の口ききで古着屋へ

奉公した。 英作さんの勤めた店の名は判らないが、信次郎のほうは判っている。 浅草

東仲町の祝屋という大店だった。 その頃の小学校は四年で卒業だから、信次郎もまだ十

一歳くらいの年でしたろう。 そんな小さな年から他人の中にもまれて、世の中の裏表を

学んだのだから昔の人は偉かったと思いますね。 今の人は大学を卒業しても、なかなか

一人前になれない人も多いそうな。 まあそれだけ世の中が複雑化したんでしょうかね。

 とにかくあれこれあった三年も過ぎて、おユウさんも行儀見習いの修行も済み、ご主人

からお褒めの言葉を頂いてめでたく故郷の長幡村へ戻った。 あとに残った兄弟二人は、

たがいに励ましあってそれから数年、次々と一人前となり店を持ち一家を成すわけだが、

まあその話の前に故郷の長幡村の実家に大事件が起こった。

 だいぶ長くなったのでここで一服。


     とみ伯母さんから聞いた話 (五)


 さて大事件とは火事のことだった。 昔の庄屋屋敷はかやぶきながら中は三層になって

いて、一階は家人の住居、二階は村の寄り合い用の大広間、三階は諸道具を納める場所に

なっていたそうだから、かなり大きな建物だっただろう。 その火事も家人の粗相でなく

喧嘩のもつれからの貰い火で、本当に馬鹿げた話だった。

 喧嘩のもとはあの梅吉だった。 ことの起こりは梅吉が酒に酔っぱらって、近所の農家

のかみさんにチョッカイを出し、亭主が怒ってどなり込んでいったところが、喧嘩だけは

めっぽう強い梅吉に、あべこべにコテンコテンにやられてしまったのを根に持って、その

晩梅吉の家のわきにある薪小屋に火をつけたのだった。 薪小屋は庄屋と梅吉の家との間

にあった。 農夫の考えでは小屋が燃えれば梅吉の家に燃え移る、そうすれば梅吉は焼け

死ぬか、死ななくとも宿無しになるだろうと思っての計画だったが、その晩吹いていた風

が梅吉の家の方でなく、反対側の庄屋の方に吹いていたので、薪小屋の火の粉は庄屋の方

へ飛んでゆき、かやぶき屋根に燃え移ってしまい、わいわい騒いで消火にあたったがとう

とう丸焼けになってしまった。

 お滝さんは泣くに泣けない。 昔のことだから火災保険があるわけもなし、梅吉を叱っ

てみても相手の農夫を訴えてみても、身内の恥をますます世間に広げるばかりだし、焼け

た家が戻るわけでもなしで、ついつい泣き寝入りで、村人の厚意とやりくりで小さな家を

ひとつ建ててやっと住んだそうな。

 さすがのお滝さんも弟の梅吉にはほとほと困り果てて、当時本庄で名の売れたおがみや

さんに見てもらったら、これはあなたの腹の中を面と向かって言わなければ解決出来ないと

いわれて、成程そうだと思って我が家に戻るとその晩梅吉を家へ呼びつけた。

 恐る恐る家へ上がってきた梅吉の前にお滝さんは正座をした。 それはいつもの優しい

姉でなく、横堀家の主婦としての権式で、弟梅吉に向かって洗いざらい今までの行状を語

り、いかに自分が婚家と梅吉の間にはさまれて苦しめられてきたか、また今後もこのまま

で梅吉がいくならば、きっと本家も分家も共つぶれになろうと、涙とともにうらみつらみ

を述べたところ、さすがのやくざ者の梅吉も姉の心情に打たれて、男泣きに泣いてお滝さ

んにあやまり、真人間になることを誓ったという。 その後、梅吉はやくざの足を洗い堅

気になった。 農地が無いので百姓が出来ないため、人力車を買い込んで町場へ出て人力

車夫になった。 今ならさしずめタクシーの運転手になったかたち。

 それから娘のおユウさんが是非にと見込まれて高崎の小林家へ嫁に行った。 なにしろ

花嫁修業の優等生でしたから。 小林家も当時は高崎でもかなりの資産家でしたから立派

な婚礼だったという。 夫の小林麟という人は奇行な人で、いろいろ珍しい事業を考える

わけ、高崎の町中で有名な温泉に浴せたら繁盛するだろうと、伊香保の湯を樽詰めにして

馬車で運ばせて温泉宿を開いたが、毎日運ぶので費用負けしてしまったとか、おユウさん

がお嫁に行ってから、今度は小林養牛園という名の牛乳販売を始めた。 高崎市を流れる

烏川と碓氷川の合流点の近くに、広い牧場を持って乳牛を沢山飼い、乳しぼりから販売ま

で一貫した直営で、これは大当りで大正時代のハイカラな家庭へどんどん売れた。

 そのうちおユウさんが初子のおとみさんを産んだ。 大勢の使用人の世話や、うっかり

目を離すとまた何か計画するご亭主の監督とで、ゆっくり赤ん坊と遊んでいられないおユ

ウさんはいろいろ考えた。 いなかで一人ぽっちで暮らすお母さんをこの際呼べば、親孝

行も出来るし赤ん坊もみてもらえるし、一石二鳥の妙案に手を打った。 お滝さんも初孫

のお守ときいて大喜び。 さてあとのこの土地をどうしようかとなって、お滝さんは弟の

梅吉にゆずることにした。

 今は堅気になっている弟、悪に強きは善にも強しとかで、梅吉さんも本当に真面目に車

を引いていた。 それで家土地は梅吉さんが守り続ける約束をしたので安心して高崎へ行

った。 その後お滝さんは娘の産む孫をキン、猛、秀子とお守をしたり、東京の英作、信

次郎の二人の息子の家に招かれたりして、安楽な老後を送って大正十一年十一月七日、七

十九歳で大往生を遂げられた。 清雲院浄光妙滝大姉が戒名。 終わり良ければすべて良

しとかでお滝婆さんはこんなわけで晩年は幸せに終わったから、プラスマイナスはプラス

になったことでしょう。



 最後に信次郎(注・筆者の父)のことを少し記します。

 祝屋で一生懸命働いたおかげで店の一番番頭になった。 祝屋は奇妙なことに幾代か前

から直系の子供が育たないし、産まれても若死にするので夫婦養子で跡継ぎをしていた。

その時の主人も中島家から来た人で金太郎といい武士の出だったがなかなか商才があり、

祝屋を大きく伸ばした人、明治時代東京で三つしかないといわれた程の立派な蔵を建てた

人だった。 その蔵は関東大震災でも東京大空襲にも焼け残ったのだから、名実ともに評

判通りの名蔵だった。 その金太郎さんにも一人娘が産まれたのですが、やっぱり十歳く

らいで死に、金太郎さんも五十歳台で亡くなった。 そこでまた夫婦養子の話が起こり、

婿には一番番頭の信次郎が選ばれ、嫁には金太郎に三人の妹があって、きく、とみ、りん

といい、中のとみさんに決まった。 ところが信次郎はとみよりも末娘のりんが大好きだ

ったので、りんでなければ祝屋は継がないと言い残して、行方不明になってしまった。

 祝屋の親類たちは仕方がないので二番番頭の彦太郎さんに話を持ち込んだ。

彦太郎さんは二つ返事でOKを出したので、とみさんと一緒になりめでたく祝屋の跡目が

決まったかと思ったら、その時新潟の方へ芸者に出ていた姉のきくが戻ってきて、姉の私

を差し置いて妹が祝屋の嫁になるとはけしからんとかいって、とみさんを実家へ追い返し

て、チャッカリ祝屋の女主人に納まってしまった。 彦太郎さんはぐずなとみより、気の

強い女だがきくでもいいと思ったのか、これまたそのまま無事夫婦になった。 この夫婦

も子無しで跡継ぎは養子夫婦だった。

 ところで問題の行方不明の一番番頭の信次郎はどうしたかと思ったら、どこかの煙草屋

で働いていた。 当時はまだ専売でなく、個人商店で煙草の製造販売していた頃で、祝屋

の跡継ぎも無事?済んだので、親類筋も信次郎の身を案じてくれて、方々捜して煙草屋か

らまた祝屋へ呼び返してくれた。 そして当人がそれほどりんが好きなら、一緒にしてや

ろうじゃないかと粋な計らいをしてくれて、信次郎とりんは晴れて夫婦になり、祝屋支店

の暖簾をもらって、三百メートル程離れた田原町に古着屋の小店を持った。 信次郎はな

かなかのアイデアマンだし、りんも商売上手な女だったので店は繁盛し、しばらくして西

仲町に進出して、祝屋本店と百メートル程のところへ店を構えて、第一次世界大戦では大

儲けして本店を追い越す勢いで、きくが怒り出してりんに暖簾を返せと言ったとかで、信

次郎も祝屋支店より新しい名前のほうがいいと暖簾を返して、三越にあやかるようにと越

後屋呉服店と改名、マークも〇に越を入れたり、合名会社にしたりした。 店員も常に十

人くらいいて、町内一の店になった。 りんもその間に子供を十人くらい産んだが、生き

残ったのは男五人で、信太郎、福次郎、謙治、正雄、祐忠。 どうも粗製乱造気味であま

りパッとしない子ばっかりですいません。 時代環境が悪かったのだと私は思うのですが

いかがでしょうかね。 有為転変は世のならい。 時代の流れで古着屋も消えて無くなっ

たし、繁盛を誇った越後屋呉服店も、客筋の遊廓が公娼廃止でつぶれたため商売が上がっ

たりになり、それがつまずきのもとで、商売は先細りとなり坂道に石を転ばしたようにこ

ろころと転げ落ちて閉店してしまった。

 その後の様子は皆さんご存知のようで、第二次大戦でとどめをさされたように、英作、

信次郎の時代は一握りの灰のように消え去りました。 でもその灰の中から若い芽が萌え

出てくれました。 横堀の木の実は方々へ散りながらも、それぞれの土地で芽を出し枝を

伸ばし葉を茂らしていきます。 どうぞ世の中の一隅でいいから良い香りと優しい花を咲

かす樹に育って下さることを切に祈っております。

 ご精読を感謝申します。        (筆者 昭和六十一年十一月二十六日逝去)



                             (文責 横堀楠生)


inserted by FC2 system